会社の『お作法』、本当に必要?元自衛隊ヘリパイが語るリスク管理の落とし穴
私が陸上自衛隊のヘリコプターパイロットとして勤務していた頃、常に念頭に置いていたのが「リスクホメオスタシス(Risk Homeostasis)」という考え方です。これは、人間がリスクを一定に保とうとする心理的な傾向を示す概念で、わかりやすく言えば「危険な状況に対して安全策が導入されると、リスクが低減した分だけ人は『もっと大胆な行動をとれる』と感じ、結果的にリスクレベルを元に戻してしまう行動をとる」といったものです。
ヘリコプターの世界で考えてみると、最新鋭のアビオニクスやナビゲーションシステム、自動操縦装置などが充実すればするほど、パイロット側が機器に依存し、操縦そのものへの集中や警戒感が薄れてしまうケースが想定されます。私自身はアナログ計器の常に緊張を強いられるヘリコプターに乗ってきたのでこのような状態に陥ったことはありませんが、自動操縦装置や安全装置等に依存した結果発生した航空事故は世界中で発生しており、「装備の充実が必ずしも安全を保証しない」という現実を痛感しました。
社会保険労務士として企業を支援する立場になった現在、私はこのリスクホメオスタシスの視点を職場環境やルールづくりにも応用することの大切さを感じています。企業が安全対策やコンプライアンスルールを強化しても、それだけで従業員のリスク意識が常に高まるわけではありません。むしろ「ルールが厳しくなったから自分には責任が及ばないかもしれない」「システムが自動的にチェックしてくれる」といった考えが働き、結果として本来の伴うはずの緊張感や注意力が下がる場合があるのです。
特に企業の歴史が長ければ長いほど、「かつて行われた失敗対策」が積み重なって、誰もその由来を知らないようなしきたりや業務手順が社内に存在していることがあります。実はそのようなルールや慣習こそがリスクを隠れたところでコントロールし、組織全体の安定を保つ機能を担っている面もあります。しかし逆に、現場からすれば「なぜこの手順が必要なのか」「本当に必要なのか不透明」という状態が続くと、形骸化してしまい形だけ守られていることがしばしばです。いわゆる“お作法”が単に「やらねばならないからやる」形の儀式的なものに堕している場合もあります。
ここで大切なのは、これらの“しきたり”や“ルール”を一度棚卸しすることです。企業文化に深く根ざした独自のやり方であっても、もともとの失敗事例やその対策経緯をよく調べ、現在の業務と照らし合わせる作業をチームで行うことで、「なぜこの手順が今必要なのか」が明確になります。結果として、「昔は必要だったが、今は必要性が希薄になっているもの」や「名前は似ていても実際の運用は別の意図があったもの」などを再整理し、本当に必要なものだけをルールとして残すことができるのです。
この整理を実施するプロセスそのものが、リスクホメオスタシスを抑制するために大変重要だと考えます。ルールを再点検して不要・不明確な部分を洗い出し、改めてリスクに対する意識を共有することで、従業員一人ひとりが主体的にリスクに向き合うきっかけを作れるからです。さらに、過剰な安全策や無意味な手順が除去されることで、必要以上に「どうせシステムがカバーしてくれる」という安易な心理にならず、自覚的な安全行動が根付きやすくなる効果も期待できます。
私も自衛隊の飛行部隊指揮官や幕僚として勤務していた当時は、定期的に「なぜ三つのバックアップが必要なのか」「この念入りな点検はどういう経緯から定められたのか」といった形で、失敗事例や事故履歴にまで遡って確認し、絶対外せない安全上重要な施策で、それでも現場サイドでは形骸化しているような事項については繰り返しその失敗事例や事故の詳細を学ぶ機会を設けていました。そうした学びの場があることによって、個々のルールが単なる縛りではなく、緊張感を持ってリスクをコントロールするために必要不可欠なものだと腹落ちしやすくなります。企業においても、こうした背景や意図を共有しながらルールに対する理解と納得を高める取り組みを続けることで、リスクホメオスタシスの「補填行動」を抑え、より安全で生産性の高い職場づくりを実現できるのではないでしょうか。
リスクホメオスタシスは人の心理の問題なので、システムやマニュアルをいくら整備しても完全に消え去ることはありません。むしろ、築いてきた企業文化や独特の慣行を整理し直し、その真意をみんなで共有し続けることこそが重要です。私自身、社会保険労務士として企業のコンサルティングを行う際には、過去の失敗から生まれた深い知恵を尊重しつつも、形骸化を防ぎ、社員一人ひとりのリスク認識を高めるための“棚卸しの機会”を大切にしています。ぜひこの機会に、皆さまの職場でも「なぜ今、このやり方をしているのか?」と問いかけ、見直しを進めてみてはいかがでしょうか。